読谷山焼は、大嶺實清さん、金城明光さん、玉元輝政さん、山田真萬さんの4名が読谷に作った共同の登り窯で焼かれたヤチムンのこと。1972 年、後に人間国宝となる金城次郎さんが読谷に移ったのに引き続き、読谷山窯は1980 年に開窯した。
琉球王朝により統合され、琉球随一の窯場となった壺屋では、戦後の復興で住宅が密集してきたために、街中で窯を焚くことが難しくなっていた。そこで登り窯にこだわる陶工は壺屋を出て他の地域に窯を築いたという。読谷村は喜名焼と呼ばれる古窯があり、南方から伝わった荒焼が生産された土地であり、また喜名土、長浜土、山田土など様々な種類の土に恵まれている地域でもあった。このような背景のもと、読谷村では当時、返還軍用地の跡地利用計画として「ヤチムンの邑(むら)」基本構想が進められており、大嶺さんをはじめとする4つの窯元による共同の登り窯は米軍の不発弾処理場の撤去跡地に建設された。伝統的文化遺産であるヤチムンを継承し、さらに発展させていくことを目標とし、4名それぞれが資金を調達し、古民家の解体現場から赤瓦を回収し、木製の電柱を大量に集め、琉球石灰岩をあしらって9 連房の登り窯を築いた。以来40 年近くにわたって読谷山焼の名称で誕生した様々な作品が全国に届けられ、ヤチムンのファンは増えていった。ヤチムンの里のやや奥まった場所に位置する読谷山窯は、ヤチムン文化とその振興の象徴的な存在でもあるのだ。